Sigsand Manuscript

ウィリアム・ホープ・ホジスンとその周辺

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小ネタです。

「you tube」に、ホジスンファンの投稿を見つけました。

william hope hodgson

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皆様お久しぶりです、ずいぶん間が空いてしまいましたがホジスン体育学校についての続きです。

 当時ホジスンは二十二歳、身長163cmと決して大柄ではなかったが(恐らく当時の英国人と比べても平均以下だったろう)、後に語ったところでは体重67.6kg、吸気時胸囲108cm、上腕囲38cm、前腕囲32cm、腰囲72cm、右大腿囲57cm,下腿囲37cm、顎囲41cmという体格で、モスコウィッツがいうような国で一二を争うという程ではないにしても、十分にがっちりと鍛え上げられた体をしていた。
ある書簡では次のように語っている。「片手で五十六ポンドのウエイト二つを頭上一杯まで持ち上げられましたし、実際、これにさらにウエイトを上乗せしても大丈夫でした。・・・また、四分の一トンの物を手に何のストラップも巻かずに素手で地面から持ち上げられました。(1906年3月2日コールソン・カーナハン宛書簡)」ホープはボディビルディングのほかにも、水泳やボクシング、柔道、乗馬も達者であったという。
体育学校開設の前後の一九〇〇年の十月二十四日、ホジスンはブラックバーン・テクニカル・スクールにおいてE..S.ベリンガム氏の助手としてさまざまなポーズのモデルをしたりデモンストレーションをしている。ホジスンもベリンガム氏とともに講演を行い、自分の鍛錬法についてスライドショーを行った。同様のデモンストレーションは数回行われ、それなりの好評を得たようだ。体育学校はしばらく経つと生徒不足に悩まされるようになったらしい。前回載せた広告が二年二月、そしてブラックバーンの街の急な坂道を自転車で下ったのが二年八月、フーディニに挑戦したのが同年十月のことである。そしてホジスンが書いたボディビルディングに関する記事は、一年八月から四年六月にかけて都合五編を数える。こうして見ていくと、数々の奇行や記事も学校の宣伝のためであったのではないかと思われてくるが、いかがなものだろうか。当時の住所録によると、体育学校には、少なくとも一九〇三年まではホジスンの名が代表として挙がっているが、〇五年には別の人物、R.ワディントン氏に代わっている。こうして学校は一九一五年くらいまで存続したようである。なぜ、ホジスンは代表から外れたのだろう。学校の経営不振によるものか、それとも創作活動に専念したかったからなのだろうか。少なくともはっきりしているのは、一九〇四年に作家としてデビューしたということである。

kane
一九〇一年の国勢調査の折、ブラックバーンのヘンリー・ストリート十六番の家にいたのは母親リジー・サラ未亡人の他にウィリアム・ホープ、二人の妹、十七歳になった長女マリー・エリザベスと次女マリー・バーサ・アン十五歳であった。バーサの職業欄には電話交換手、そしてホープの項には体育学校代表と記されている。
 船を下りたホープが次に身の置き場に選んだのは、ほとんど自己流とはいえ、すでにかなりの経験を持っていたボディビルディングであった。この時期のボディビルは、現代のそれとは少し趣を異にする。この頃は重量挙げや健康のための鍛錬といった内容も含まれ、特に重量挙げはほとんど大道芸の一演目、エンターテイメントとしてもみられていたようで、ミュージックホールや見世物小屋などで盛んに演じられていた。重量挙げの選手というより力持ちとか鉄人などといった言葉の方がふさわしいくらいであろう。Iron Gameという単語がそれを如実に言い表していよう。かつて、浅黒く筋肉質の体といえば労働者階級のものとされていたのだが、十九世紀後期にはボディビルディングは階級の壁を越えて、イギリス各地にぞくぞくと教室が開かれていた。一九〇一年には一回目の全英コンテストが開かれている。主催は、ミュージックホール出身の体育家、ユージーン・サンドウ、そして審査員の中にはコナン・ドイルの名も見える。現代のウェイトトレーニングの基礎が出来上がったのもこの時期である。
一九〇〇年秋頃、ホジスンはブラックバーンのロイアル・シアターの隣にあるアイントワース・ストリート十三番地のビルの二階に「体育学校(School of Physical Culture)」を開いた。学校の開設に当たっては、叔父から資金援助を受けたようだ。設備はなかなか凝ったもので、千二百平方フィートの敷地に広く快適な教室、更衣室、シャワー室、ロビー、それに換気装置に加え、各部屋の電気照明というように、大都市の同種のものと比べても決して見劣りするものではなかった。この学校の売りは、設備だけではなく、現在ではごくありふれたファイルシステムにあった。どのようなレッスンが必要なのか判断できるように、生徒は入校時に学校認定の医師により、綿密な診断を受けると同時に専属写真家のフランク・バートンの手で写真(アマチュア写真家のホジスン自身でなく、外部の写真師を入れていることに注目されたい)を撮られた。そしてレッスンが進行していく過程で何度もチェックを受けるのである。
 レッスンは午後7時半と8時半の二クラスが開かれ、三ヶ月(十三週)間、週1レッスンで十シリング六ペンス、週二レッスンだと十七シリング六ペンスであった。都市部の商店が半ドンになる、土曜日の午後には十二レッスン当たり八シリング六ペンスで教室が開かれた。
生徒は地元の事務員たちだけでなく、警官を相手にしたクラスもあったし、YMCAに出向いてクラスを開くこともあった。生徒数は開校から十八カ月で、のべ三〇〇から三五〇人に上ったという。
下の写真はブラックバーンの地元紙に掲載された「体育学校」の広告です。

WHH.jpg


この項続く。
kane
 蛇足のようなものですが、ホジスンの作品を明治44年に翻訳紹介した阿武天風氏について、少しだけ。

阿武天風という人のことについては、こちらのサイトでとても詳しく紹介されています。押川春浪を継いで「冒険世界」の主筆を務めた人物であるということ。虎髯大尉は、彼の別名です。
 以前、僕の別ブログで紹介した横田順彌氏の作品「水晶の涙」にも、登場人物の一人として出てきます。今では忘れられている作家ですが、明治期の重要な大衆作家の一人といっていいでしょうね。
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 先日、kaneさんの記事で日本で最初に紹介されたホジスン作品ということで、「絶海に生き残った親子三人」が話題に上がりました。
 これは、明治期の少年雑誌「冒険世界」に掲載されたものです。ただ、情報がやや混乱しているので、今日、ちょっと千鳥が淵の桜見物がてら、国会図書館へ出かけて、見てきました。以下が報告です。

 まずタイトル等なのですが、これは雑誌の記述が滅茶苦茶なのですね。表紙には、

「絶海の親子四人」 虎髯大尉

とありまして、目次には

「絶海の親子三人」 阿武天風


とあります。さらに本文のタイトル部には、

「絶海に生き残った親子三人」 天風生譯


となっています。
つまり、全く統一されていないのですね。

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 あと、「冒険世界」の号数なのですが、これは1911,4(11)でいいと思うのですが、表紙にこの本の刷納本日として明治44年7月28日の記述があり、目次には明治44年8月1日発行となっています。さらにややこしいことに、表紙の号数が4(10)となっているのですね(背表紙がないので、そこはわかりません)。でも、申し込んだものがこれだし、表紙に掲げられている内容も合っていますから、11号で間違いはないんでしょう。
総合して考えると、

「冒険世界」 1911, 4(11); p52-58
 (明治44年) 8月1日 博文館発行 

で、

「絶海に生き残った親子三人」 阿武天風 訳

が正しいのでしょうね。

 翻訳は、国書刊行会版の「海ふかく」で言えば、p122の上段の13行目からになります。つまり、第五の手紙部分がほぼ全てというわけですね。ちなみに、原作者としてホジスンの名前は、「ホ」の字も出てきません。おそらくホジスンには了承も取っていないでしょうし、著作権におおらかな時代だったんですね(笑)。

(shigeyuki)

 今回紹介するのはホジスンが乗った船、エウテルペ号の船首像の写真です。同じものでより鮮明なものが先ごろ発表されたジェーン・フランクによる「The Wandering Soul」の表紙を飾っていますが、こちらの出典はTimes Weekly Edition1932年9月15日号です。
20070226001728.jpg

 モスコウィッツのホジスン評伝「The Posthumous Acceptance of William Hope Hodgson」によると、1932年3月にWeekly Timesへ8ドルで、また9月にはTimes Supplementへ3ドルで売られたということです。Weekly TimesとTimes Supplementと、ここでは異なった名で呼ばれていますが、両者は同じ新聞で、Times Weekly Editionのことです。
 さて、9月に売られたものは「Euterpe号の船首像」となっていて、これは今回紹介したものに間違いないと思われますが、3月のものに対しては「チップスという船匠が、波が甲板を洗う中、甲板材の隙間を直している」写真であったそうです。時期的には前回紹介した写真がこのときに売られたものと思われますが、内容はまったく食い違いを見せています。この頃の同誌を数か月分に渡って調べてみましたが、そのような写真を見つけることは出来ませんでした。ただ、前回紹介の写真も見ようによっては波が甲板を洗っているように見えなくもないのですが。ちなみにチップスとは船乗り言葉で船匠を意味し、特定の船匠のあだ名ではありません。

kane
ホジスンが写真を撮っていたというのは良く知られたことですが、どのような形であれ、その写真を眼にした人はかなりのマニアでしょう。今回紹介するのは、Times Weekly Edition 1932年3月3日号に掲載されたもので、キャプションには “AT SEA:The sailmaker at work on board the sailing-ship Euterpe during a voyage from Grasgow to  Dunedin,New Zealand, with a cargo of dynamite and other explosives”とあります。当時の積荷目録によると「648ケースのダイナマイトと2ケースのカーボナイト」が積まれていたということです。
Euterpe-1.jpg


kane
ホジスンの著作活動は1902年にボディビルの記事を書いたことに始まると言われているが、1905年から1906年にかけてのCoulson Kernahan 宛書簡によると処女作が雑誌に載るまでに四百回以上も出版社から突き返されたという。彼が物を書き始めたのは船を下りた世紀の変わり目にまで遡るといっていいだろう。
C.L.とイニシャルのみある作家の作品にThe Raft( Sketchy Bits No.543 1905 p14-15)というのがある。筋立ては、嵐で船を失い筏に乗り移った四人の男たちが、サルガッソー海へ迷い込み、大タコの襲撃を受け仲間を失いながらも、他船の助けを借りて脱出に成功する、といったものだったが、ホジスンは1905年11月17日のCoulson Kernahan宛ての手紙の中で、自分の“Weed Story” からアイディアを得たのだといっている。
なかなか作品が売れない中でのホジスンの苛立ちが思われる。
1906年頃からThe Authorという雑誌にホジスンの書いた記事が載り始める。これはSociety of Authors Inc.という団体の会報で、初代の会長はテニソンで、多くの著名な作家が名を連ねている。ホジスンはこの団体を通じてウェルズなどいく人もの作家と親交を持ち、作家としての姿勢を教えられたようだ。その頃授かった教えの中に版権に関するものもあったのかもしれない。ホジスンの作品の中に著作権版が現れるのはこの後のことだ。次に彼の著作で著作権版と思われるものをあげる。私の調べがついていないだけで、まだ他にもあるかもしれない。
1.The Ghost Pirates, a Chaunty, and another story  
(Paul R.Reynolds, New York 1909)
2.Carnacki, the Ghost Finder, and a poem 
(London, 出版社不明 1910) (Paul R.Reynolds, New York 1910)
3.Poems and The Dream of X
(A.P.Watt & Son, London 1912) (Harold Paget, New York 1912)
4.Cargunka and Poems and Anecdotes  
(A.P.Watt & Son, London 1914) (R.H.Paget, New York 1914)
ここにあるHarold Paget、A.P.Watt & Sonはそれぞれアメリカとイギリスの著名な出版エージェントで、A.P.Watt はドイルやハッガードも顧客だった。Carnackにはシリーズ4編が、Cargunkaには10編ほどの短編のプロットが並べられている。これに1909年から彼の著作活動の終わり頃までの作品がだいたい網羅されていることがわかる。自分の言いたいことに沿うように事実を書き並べてしまったが、ホジスンが意外なほど版権を気にしていたのが分かってもらえるだろうか。
というわけで、shigeyukiさま、アメリカの市場を重視していたというより、版権を気にしていたというのが真相では。
ディスコスと草刈り機が重なるのかわたしだけでしょうか。

kane
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