Sigsand Manuscript

ウィリアム・ホープ・ホジスンとその周辺

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   ▲寂しいが又るのだ

 人間といふ者は如何なる絶望ぜつばうの淵にしづんでも、全然ぜんゝゝ生の執着しうちやくなげうち得ないものである。余とても其通りで、惡魔あくま棲む絶海のほとりに、限られた生活せいくわつみちを辿りながら、尚ほ自家防衛の必要ひつえうを思ふて、怪物くわいぶつ來襲らいしふを防ぐためには、己の最善ベストつくすことを惜しまなかつた。それには恰度ちやうど蟹軍かぐんが船の甲板に這ひ上がつて手段しゆだんを見出したので、余は早速さつそくこれが防御方法はうはうかうじた。といふのは船首バウからボースプリツトが斜めに海に突き込んで居たばかりでなく、恰度ちやうど其處そこ天幕オーニングの隙があつたので蟹はボースプリツトに足をかけ、天幕オーニングの隙間から甲板へ這上はひあがつたのだと知れたのだ。そこで余はをのふるつて圓材えんざい切斷せつだんした。そして蟹の來襲らいしふ遮斷しやだんした。
 其後そのご今迄いまゝで余等よら此種このしゆ危險きけん遭遇さうぐうしたことはない。けれども蟹が全然ぜんゞゝ余等を見捨てたかといふにさうでない。彼等は依然としてその鐡塊てつくわいの如き鋏爪ヒンサークロース船側ふなべりを叩いて居る。
 余は今その不愉快ふゆくわいな音を聞きつゝ筆を執りつゝあるのだ。余は他の四個の消息せうそくと同じく、此書これをも世界の何處いづこの人の手にか届くやうに、火球フワイヤバーンに結び付て此處こゝから放さうと思ふ。
 あゝ!余はすでにペンを走らすべくあまりに疲勞ひろうを感じた、赤團々せきだんゞゝたる太陽たいやうは、今やまさとほき彼方の地平線下ちへいせんかに没し去らんとして居る。寂しい夜が又るのだ。最早何事もいふことはない。余及び余の妻子もさいはひにしてほ未だ健全である。されど    !?
 余は忍ばなければならぬ。この恐るべきタイム壓迫あつはくたいして、余は余みづからを制仰コントロしなければならぬ。吾々われゝゝ到底たうてい助かる見込みはないのだ。けれども、吾々われゝゝ勇氣ゆうきを振ひ起して、すべての脅迫おびやかしに堪へて行く積りである。是は必ずしも余の愚痴ぐちではないのである!!



"From the Tideless Sea"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by 阿武天風




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   ▲人肉のふたのか

 余は此蟹このかにの大群が今迄いまゝで何處どこに隠れて居たか、又如何にして人肉をくらはんと欲するに至つた、そんな事は知ることはできない。が、彼等は或は一種の好奇心かうきしんつて、余のこの絶望ぜつばうに囚はれた船を襲ふて見たのかも知れない。
 余は又うも考へる。繁り重なつた海草かいさううへに現はれた黒色こくしよく船體せんたいを、彼等は何者かの死骸しがと見て、それをはさみくらはんがめに、大擧たいきよして船體せんたい包圍はうゐしたのではあるまいか。しさうだとすれば、船側ふなべ鐡板てつぱんは彼らに取つて、恐しく靱強タツフかはと見えたに相違さうゐない。それは兎に角彼等が船を襲ふた理由りいうたしかに解らないが、彼等の鋭敏な嗅覚に依つて、吾々われゝゝ親子三人の存在を嗅ぎ付けて、ノソゝゝやつてたのだとすれば今後共この危險きけん屡ゝしばゝゝ起るものと覺悟かくごしなければならぬ。余は野豚の一頭位はけつして惜しまぬ。絶望といふ運命が吾々われゝゝまへに立つて、吾々われゝゝ生活せいくわつの線を切斷たちきらうとして居る矢先であつても、貴重きちよう糧食りやうしよくとしての野豚はけつして惜しむに足らぬ。が、吾々われゝゝ三人がこの醜い敵に依つて、くらつくさるゝといふ事は到底たうてい忍びべきでない。

"From the Tideless Sea"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
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   ▲甲板かんぱんおほ巨蟹ジヤイアントクラブ

 余は食器室バントリーを見た。別に異状いじやうはない。そこで殺された野豚のことがになるので、余は十分警戒しつゝ上甲板うへへと上がつて行つた。此時このとき余は不用意にも今迄感じたことのない驚愕きやうがくめに、ツと叫んで二歩三歩ふたあしみあし引退ひきさがらざるを得なかつた。何故かといふと其處そこで、一個ひとつの恐しい怪物くわいぶつを見たからである。
 恐しい怪物くわいぶつ!それは何であつたらう?此書これむ人が余のその正體しやうたいを明らかにするに及んで、初めてその平凡を嘲るなからんことを望む。如何いかなる物でも吾々われゝゝの眼におほれて居るがめに、必ずしもその物が平凡であるとはいへぬ。何故なればまれ異常エキストラオーデナリーなものがあるからである。
 サテ余はこゝに於て怪物くわいぶつ正體しやうたいを明かさずばなるまい。それは驚くべき巨大きよだい海蟹うみがにであつた。その褐色せいかつしよく甲羅かうらは最もひろところに於て、たしかに十ヒートはあつたらうと思はれる。二本の頑丈ぐわんぢやう鋏爪ビンサークロース鐡壁てつへきくだくに足るかと見えた。豚の死屍したいこのかにに依つて片付けられたであらう、既に其處そこには一くわいの肉、一片の骨すらのこつて居なかつた。
 恐怖  それこそ世にたぐひあるまじき深甚しんゞゝな恐怖に、余等よらを三日三晩閉ぢ込めた怪物くわいぶつの主が、蟹であらうとは何人なんびと想像さうゞゝし得べき?余は甲板に横はつた巨大な蟹の姿の恐ろしさにもかゝはらず、初めて一切の不思議を解決することができて、やうやく胸をでおろしたのであつた。けれども、余等よらの船を襲ふて、船體せんたい微塵みぢんになるかと思ふほどの音を立てたのも、また大食堂サルーンに潜り込んで、船室キヤビン破壊はくわいしたのも、無論この蟹一ぴき所業しわざではない。恐らく彼は他のおほくの仲間  それは或は彼よりも尚ほ一層巨大なものがあつたかも知れない  と一しよに、海をおほ海草かいさううへを渡つて殺到さつたうしたに相違さうゐない。う考へると蟹とはいひでう、襲はれる方では必ずしも愉快ゆくわいなものではない。

"From the Tideless Sea"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
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   ▲慘澹さんたんたる大破壊だいはくわい光景くわうけい

   
 朝餐てうさんを済ませて余は十分四邊あたりを警戒しながら、船内の檢分けんぶんに向かつた。しかし打明けていへばあま心持こゝろもちのよいことではなかつた。何しろその正體しやうたいこそ見届けることができなかつたが、前代未聞ぜんだいみぶん怪物くわいぶつが暴れはつたおそれがあるので、ウカと出て行かうものなら、余は余の唯一ただひとつしかない生命と一緒に、その怪物くわいぶつの犠牲とならなければならぬかも知れぬ。さうなればその必然の結果けつくわとして、この地獄ぢごくの海の如き恐しいところに、妻と娘とをのこさねばならぬばかりでなく、やがては又彼等かれら惨酷むごたらしい運命におちいるにきまつて居る。
 余は這麼こんなことを考へながらたつを排して大食堂サルーンへ入つて行つた。何たる恐るべきことであらう?余は此處ここで驚くべき不思議な光景くわんけいを見た。それは大食堂サルーンかこんだ六個むつ船室キヤビンの扉がことゞゝく目茶々々に破壊はくわいされてあつたのである。前夜しきりに鐡槌てつづちふるつて何物かを破壊はくわいするやうな音のしたのは正にこれである。さるにしても果して何者の所業しわざであらうか。無論吾々われゝゝ親子三人を除いては、この茫漠ぼうばくたる大海たいかいの果てに、かゝ所業しわざをなし得べきものは一にんもない筈である。
 まへ一寸ちよつと述べたとほりに、船を包圍はうゐした林の如き海草かいさうの中には、巨大なる大章魚オクトパスんで居て、時々その丈餘ぢやうよの足をふるつて吾々われゝゝを襲ふことがある。釣鐘つりがねの如き頭をニユツと現はし、數十呎すじゆうフィートもあらんかとおぼしき八本の足を立てゝ、船も人も一呑ひとのみと踊りかゝつてるときは、決して愉快ゆくわいなものではない。けれどもそれがめには、上甲板全體じやうかんぱんぜんたい天幕アーチングを張り詰め、そのすそ船側ふなべりに取つてあるので、上甲板うへ這上はひあつて暴威ばういたくましふすることはできない。
 余はかくの如くにして久しくこの大章魚オクトパスためにはなやまされた。けれども前夜らいの怪しい物音と、この慘澹さんたんたる大破壊だいはくわいをあの海の大入道おゝにふだうあへてしたのだとは、うしても信ずることができなかつた。

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   ▲疑惑の淵にしづみ行く

   晝間ひるまは何事もなくすんだが、の九時頃になると、今迄いまゝでにないおほきな音が聞えた。恰度ちやうど船の周圍しうゐを、何か思いもので無闇に打撃たたくやうなで、それが一しきり済むと、十五分間ばかりしづかになる。スルトまた不意にガタンピシンと、建物を破壊ぶちこはすときのやうな騒ぎが始まる。
 余は上甲板うへ昇降口ハツチの扉を、固く閉して終夜しうや殆んど間斷かんだんなき危險きけんと恐怖の壓迫あつはくに備へた。余がかくの如く嚴重げんぢうな用意をしたにも係らず、猶且なほかつ堪へ難い不安を感じたといふことは、やが其夜そのよ如何いかに恐しい出來事できごとがあつたかを證明しようめいしてあまりがある。
 恐怖を感じ不安に襲はれた程長いものはない。余はが明けてから、精せいしん過度くわど疲勞ひらうめに、太陽たいやうが地平線から高くあがるまで何事も知らずに熟眠じゆくみんした。やがその朝目醒めたとき、余は妻らと共に前夜の危險きけんと恐怖とを語り合つて、益ゝますます深い疑惑の淵にしづみ行くのであつた。

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   ▲魔力まりよくのある怪物くわいぶつ

 余はこの不思議な出來事できごとを見て、しんから戰慄せんりつを禁ずることができなかつた。何者の所業しわざまたうしたわけか、其時そのときの余に取つては一切夢中むちうであつた。で、あたかも獵犬りやうけんに追はれた兎の如く、下甲板げかんぱん寢室しんしつに逃げ込んでしまつた。
 其夜そのよは殆どマンヂリともしなかつた。翌朝よくてう此事このことを妻に話すと、彼女かれ今更のやうに驚いて、是非ぜひ死んだ野豚が見たいといふ。そこで二人連れ立つて行つて見ると、昨夜ゆふべ死んだまゝになつて居たのが、何者なにものの鋭利なる牙でか、野豚の頭は胴から離れ、其他そのた大小だいせうの傷を無数むすうに負ふて、四脚よつあしで虚空をつかんで居た。
 かく不思議で堪らない。うなると怪異くわいい正體しゃうたい何處どこるかといふことが問題になる。そこで余は船中せんちうくまなく捜索して見たが、遂に何者なんらの怪しむべき者をも見出すことがなかつた。しかしながら頑犬ぐわんけん鐡檻てつをりを破り、獰猛だうまうな野豚をほふ手際てぎはから判斷はんだんすると、怪物くわいぶつ怪物くわいぶつ餘程よほど恐るべきものであるといふことだけは確實たしかになつた。

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   ▲野豚が惨殺された

 寢室しんしつはひつたがよひ怪異くわいゝ出來事できごと熟睡じゆくすゐを妨げたのか、午前二時頃不圖ふと眼を醒すと、何時いつとはなしに意識が明晰はつきりしてて、うしても元の睡眠すゐみんに陥ることができなかつた。そこで竊乎そつとランプをけて寢室しんしつを抜け出した。
 上甲板うへへ出ると靜寂せいじやくなる深夜の空氣くうきが、又してもかすかな怪音くわいおんゆるいでる。余は其音そのおとたより、、、に船首の方へ近寄つた。と思ふと、突如として騒々さうゞゝしい音が起つた。余はランプで四邊あたりを照らした。けれども、もとより何者も見出すことはできなかつた。
 絶海無人ぜつかいむじんほとり、暗夜あんやにけたゝましき怪音くわいおんを聞くといふことに就いては、其處そこに何等かの危險きけんが存在するものと覺悟かくごしなければならない。余は夢破れてふたゝび眠られぬまゝの、いはゞ、、、)一しゆ醉狂すいきよう上甲板うへへ出てたのであるが、不圖ふと昇降口ハツチの扉を開け放しにしておいは事に考へ及ぶと、直ぐに暗中あんちう危險きけんが何事も知らずに熟睡じゆくすゐして居る妻と娘のうへに及びはしないかといふことが心配になつたので、一旦退いて昇降口ハツチの扉を閉ぢ、背水はいすゐぢんを張つた積りで、片手にランプを打振りうちふり片手にをのを提げて空虚な前甲板ぜんかんぱんに行つた。
 余は正直しやうじき白状はくじやうする。此時このときばかりは實際じつさい恐怖の念に打たれざるを得なかつた。
 余は此處ここで凄惨なる光景ありさまに眼をさらした。余の船には巨大な一頭の野豚がのこつて居た。その野豚は前甲板フオクソルの下の豚舎スチイ飼養しやうしてあつた。ところが余がそのこの豚舎スチイに近づいて見ると、豚の奴は堅牢けんらうに造られた豚舎スチイから引きずりいだされ、膨れた腹をうへにして死んで居るではないか。のみならず、豚舎スチイの太い鐡格子てつがうしが、飴細工あめざいくのやうに自由じいうに曲げてある。甲板デツキには鮮血がほとばしつて見るから殘酷むごたらしい。

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   ▲闇中あんちう何者かうごめく

 余はくの如くにして音響おんきやうの源が何處いづこにあるかといふことをきはめるめに種々しゆゞゝな苦心をした。其結果そのけつくわ舷側ふなべり欄干レールが、其の怪音くわいおんを間接に傳導でんだうするのだといふことを知つた。そこで余は欄干レールに耳を押し付けて、およ音響おんきやうの所在をたしかめたのち此所ここぞと思ふところへ例の牛眼燈ぎうがんとうを照らして見た。余は其處そこで何者か動くものを發見はつけんしたが、その正體しやうたい見現みあらはすまへに、早くも怪物くわいぶつは姿を海草かいさうかげに没してしまつた。
 何時いつの間にか妻が短銃ピストルげて、余の後に立つて居た。彼女かれ上甲板うへける余の擧動きどうを、初めから凝乎じつと見守つて居たのである。
 『萬一もしもの事があるといけませんから下甲板したへ降りて下さいな。』と妻はしきりに余を説きすすめた。
 しかし余はその勸告くわんこくに従ふことをしなかつた。そして暫く後部最上甲板ブーブに立つて、怪物くわいぶつ現はれるのを待つた。
 刻一刻こくいつこくと更けた。灰色はひいろに曇つた空からも、何か變化へんくわが現はれさうながして、待ちぐんで下甲板したに降りるまでの二時間ばかりといふものは、余の全身は妖魔えんまてのひらの下に壓伏おしつけられて居るやうな心持こころもちがした。

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Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
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   ▲手斧てをの短銃ピストルひつさげて

 
 余はこの或る安心を求めるやうな質問にたいして、別に適當てきたうこたへを見出すことができなかつた。
 『オヤまた何だか聞えるやうですね。』と妻がいふ。
 『ウム成程なるほどまだ何かコトゝゝいつているやうだな。』
 せいでも何でもない。正に舷側ふなべりでコトゝゝ音がする。
 『早く上甲板うへへ上りませう。到底とても這麼こんな氣味きみわるところにはられませんわ。病氣びやうきになりますよ。』
 妻にすゝめられて上甲板うへに上がつたが、わづか五分間程しづかであつたきり、今度はきはめて明らかな音が聞え始めた。余は妻を食堂サルーンに連れて行つて其處そこで待たせ、船室キヤビンから短銃ピストルを持出し彈丸たまめてポケツトの中にぢ込み、食器室パントリーから牛眼燈ぎがとうを出してそれに火をてんじた。
 うして上甲板うへに出た余は、後檣ミヅンマストの根元にかけてあつた手斧てをのひつさげ、さききに激しい音のした左舷側さげんそくを覗いて見た。しかし余は其然そこで何者をも見出すことができなかつた。そこで余は後部最上甲板ブープから船尾スターンを見たが、此處ここにも何等なんら怪しむべきものはなかつた。もつとも怪しの音は水線下すゐせんかでするのだから。上甲板うへから海面かいめんを覗いたくらゐでは、何者も見ることができなかつたのが當然たうぜんだつたかも知れない。けれども、場所が場所、事情じゞやう事情じゞやうであるから、余はこれつて少なからず理性の平調へいてうを破られたこと勿論もちろんである。

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   ▲水線以下すゐせんいか怪音響くわいおんきやう
 


 十ぐわつの下旬或夜あるよのことであつた。余が船艙せんそうに降りて、糧食りやうしよくを検査しようとすると、右舷うげんの方にあたつて、不思議にもタツプータツプータツプと云ふ音が聞こえた。しかもそれがたしかに水線すゐせん以下である。
 余は何だらうと思ひながら、暫く突立つたまゝみゝを傾けていた。けれども余にはそれが何だといふことは判断が付かなかつた。其内そのうちに怪しい音は止んだが、又始まるだらうと思つて依然として舷側げそくを配つて居た。
 スルト案のじう又タツプータツプと音が聞こえ始めた。が、今度はそれが左舷さげん の方でするのである。余は慄然ぞつとしてしまつた。何しろ絶海に四年の歳月を送つて、再び他の人類じんるゐと相見ることのできない憂鬱的いううつてきな生を送つて居るところへ、不意に這麼こんな音を聞かされては、余の精髄せいずゐすべての不ふしやう刺戟しげきを受くためは無理からぬことである。しかしながら余は何時いつまでも驚きおのゝいては居られない。そこで勇氣ゆうきを振り起し、音のする方へツカゝゝと歩み寄つた。そして靜乎と耳を傾けた。
 明らかに騒々さうゞゝしい物音が聞える。何か堅いもので船側ふなべりを叩くやうな、といつても解るまいが、鐡槌ハンマー舷側ふなべり鐡板てついたでも叩くやうな音である。スルト今度は不意に水雷すゐらいでも爆發ばくはつしたやうな音がした。余はこのけたゝましい音響おんきやうに脅かされ、吃驚びつくりして後へ引き退つたのである。
 余はこの不思議な音を三度ばかり聞いた。しかし三度きりであとは一しきり元の靜寂にかえつた。
 『今の音は何でございませうか。』と妻が余に訊いた。
 『つ!靜に!』と余は妻の言葉を遮つた。
 彼女かれ餘程よほど恐怖に打たれたと見え、色蒼いろあおざめて余の傍に降りて來た。そしてこえを潜めてういつた。
 『なんでせうねえ。今の音は?』
 余がこの問ひに答へやうとする途端、又恐しい音響おんきやう舷側ふなべりの外に起つた。妻はをんなだけにキヤツと叫んで二三歩引退つたが遠雷えんらいのやうにひゞきの名殘なごりが靜まると、彼女かれこゑをはづませて三度みたびう訊いた。
 『なんでせうねえ?なんでせうねえ?なんでせうねえ?』

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