Sigsand Manuscript

ウィリアム・ホープ・ホジスンとその周辺

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   ▲甲板かんぱんおほ巨蟹ジヤイアントクラブ

 余は食器室バントリーを見た。別に異状いじやうはない。そこで殺された野豚のことがになるので、余は十分警戒しつゝ上甲板うへへと上がつて行つた。此時このとき余は不用意にも今迄感じたことのない驚愕きやうがくめに、ツと叫んで二歩三歩ふたあしみあし引退ひきさがらざるを得なかつた。何故かといふと其處そこで、一個ひとつの恐しい怪物くわいぶつを見たからである。
 恐しい怪物くわいぶつ!それは何であつたらう?此書これむ人が余のその正體しやうたいを明らかにするに及んで、初めてその平凡を嘲るなからんことを望む。如何いかなる物でも吾々われゝゝの眼におほれて居るがめに、必ずしもその物が平凡であるとはいへぬ。何故なればまれ異常エキストラオーデナリーなものがあるからである。
 サテ余はこゝに於て怪物くわいぶつ正體しやうたいを明かさずばなるまい。それは驚くべき巨大きよだい海蟹うみがにであつた。その褐色せいかつしよく甲羅かうらは最もひろところに於て、たしかに十ヒートはあつたらうと思はれる。二本の頑丈ぐわんぢやう鋏爪ビンサークロース鐡壁てつへきくだくに足るかと見えた。豚の死屍したいこのかにに依つて片付けられたであらう、既に其處そこには一くわいの肉、一片の骨すらのこつて居なかつた。
 恐怖  それこそ世にたぐひあるまじき深甚しんゞゝな恐怖に、余等よらを三日三晩閉ぢ込めた怪物くわいぶつの主が、蟹であらうとは何人なんびと想像さうゞゝし得べき?余は甲板に横はつた巨大な蟹の姿の恐ろしさにもかゝはらず、初めて一切の不思議を解決することができて、やうやく胸をでおろしたのであつた。けれども、余等よらの船を襲ふて、船體せんたい微塵みぢんになるかと思ふほどの音を立てたのも、また大食堂サルーンに潜り込んで、船室キヤビン破壊はくわいしたのも、無論この蟹一ぴき所業しわざではない。恐らく彼は他のおほくの仲間  それは或は彼よりも尚ほ一層巨大なものがあつたかも知れない  と一しよに、海をおほ海草かいさううへを渡つて殺到さつたうしたに相違さうゐない。う考へると蟹とはいひでう、襲はれる方では必ずしも愉快ゆくわいなものではない。

"From the Tideless Sea"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
Transrated by 阿武天風





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"Well, Sir," I said, "to be straight, what about that chap you sent us hunting after up the main the other night? That was a funny enough affair, wasn't it? This one isn't half so funny."

"That will do, Jessop!" he said, angrily. "I won't have any back talk." Yet there was something about his tone that told me I had got one in on my own. He seemed all at once less able to appear confident that I was telling him a fairy tale.

After that, for perhaps half a minute, he said nothing. I guessed he was doing some hard thinking. When he spoke again it was on the matter of getting the Ordinary down on deck.

"One of you'll have to go down the lee side and steady him down," he concluded.

He turned and looked downwards.

"Are you bringing that gantline?" he sang out

"Yes, Sir," I heard one of the men answer.

A moment later, I saw the man's head appear over the top. He had the tail-block slung round his neck, and the end of the gantline over his shoulder.

Very soon we had the gantline rigged, and Tom down on deck. Then we took him into the fo'cas'le and put him in his bunk. The Second Mate had sent for some brandy, and now he started to dose him well with it. At the same time a couple of the men chafed his hands and feet. In a little, he began to show signs of coming round. Presently, after a sudden fit of coughing, he opened his eyes, with a surprised, bewildered stare. Then he caught at the edge of his bunk-board, and sat up, giddily. One of the men steadied him, while the Second Mate stood back, and eyed him, critically. The boy rocked as he sat, and put up his hand to his head. 

 


   「率直にいいますが、この間の夜、私たちが追っかけてた野郎は何なんでしょうね。全く妙じゃないですか。あれに比べりゃ、今夜のことなんて半分もおかしなことじゃないですね」

「ジェソップ、もういい。口答えなんぞたくさんだ」と腹立たしげにいった。そういう口調にはどこか、それは自分が追わせたんだっていってるみたいだった。すぐに、俺が作り話をしているなんていう思い込みもぐらつき出したようでね。その後三十秒程も黙ったままだったな。何か一生懸命に考えていたんだろう。次に口を開いてみると、オーディナリーをどうやってデッキに降ろすか、ということだった。

「誰か一人、こいつを支えながら風下側を降りなきゃならんな」

それから振り返って、見下ろして「ガントラインは持ってきたな」

「イエス、サー」誰かが答えた。

 すぐに首からテイルブロックをぶら下げ、ガントラインの端を肩に引っかけた男の頭がトップの上に現れた。

 俺たちは直ちにガントラインを用意してトムをデッキに降ろし、船首楼に連れていって寝棚に押し込んだ。二等航海士は、正気づけにブランデーを少し持ってこさせて、飲ませようとした。その一方で、二人の水夫があいつの手と足をさすってやった。ほどなくして、意識が戻る気配がした。それからすぐに、激しく咳こんで目を開いた。その目には驚きと当惑の色がうかがえた。あいつは側板をつかんで、ぼんやりと上体を起こした。一人の水夫がそれを支えてやってると、二等航海士は後ろに退がって値踏みでもするかのように眺めていた。座ったまま体をふらふらさせながら、トムは額に手を当てた。

 

                                                       つづく

kane


   ▲慘澹さんたんたる大破壊だいはくわい光景くわうけい

   
 朝餐てうさんを済ませて余は十分四邊あたりを警戒しながら、船内の檢分けんぶんに向かつた。しかし打明けていへばあま心持こゝろもちのよいことではなかつた。何しろその正體しやうたいこそ見届けることができなかつたが、前代未聞ぜんだいみぶん怪物くわいぶつが暴れはつたおそれがあるので、ウカと出て行かうものなら、余は余の唯一ただひとつしかない生命と一緒に、その怪物くわいぶつの犠牲とならなければならぬかも知れぬ。さうなればその必然の結果けつくわとして、この地獄ぢごくの海の如き恐しいところに、妻と娘とをのこさねばならぬばかりでなく、やがては又彼等かれら惨酷むごたらしい運命におちいるにきまつて居る。
 余は這麼こんなことを考へながらたつを排して大食堂サルーンへ入つて行つた。何たる恐るべきことであらう?余は此處ここで驚くべき不思議な光景くわんけいを見た。それは大食堂サルーンかこんだ六個むつ船室キヤビンの扉がことゞゝく目茶々々に破壊はくわいされてあつたのである。前夜しきりに鐡槌てつづちふるつて何物かを破壊はくわいするやうな音のしたのは正にこれである。さるにしても果して何者の所業しわざであらうか。無論吾々われゝゝ親子三人を除いては、この茫漠ぼうばくたる大海たいかいの果てに、かゝ所業しわざをなし得べきものは一にんもない筈である。
 まへ一寸ちよつと述べたとほりに、船を包圍はうゐした林の如き海草かいさうの中には、巨大なる大章魚オクトパスんで居て、時々その丈餘ぢやうよの足をふるつて吾々われゝゝを襲ふことがある。釣鐘つりがねの如き頭をニユツと現はし、數十呎すじゆうフィートもあらんかとおぼしき八本の足を立てゝ、船も人も一呑ひとのみと踊りかゝつてるときは、決して愉快ゆくわいなものではない。けれどもそれがめには、上甲板全體じやうかんぱんぜんたい天幕アーチングを張り詰め、そのすそ船側ふなべりに取つてあるので、上甲板うへ這上はひあつて暴威ばういたくましふすることはできない。
 余はかくの如くにして久しくこの大章魚オクトパスためにはなやまされた。けれども前夜らいの怪しい物音と、この慘澹さんたんたる大破壊だいはくわいをあの海の大入道おゝにふだうあへてしたのだとは、うしても信ずることができなかつた。

"From the Tideless Sea"
Written by William Hope Hodgson
(ウィリアム・ホープ・ホジスン)
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   ▲疑惑の淵にしづみ行く

   晝間ひるまは何事もなくすんだが、の九時頃になると、今迄いまゝでにないおほきな音が聞えた。恰度ちやうど船の周圍しうゐを、何か思いもので無闇に打撃たたくやうなで、それが一しきり済むと、十五分間ばかりしづかになる。スルトまた不意にガタンピシンと、建物を破壊ぶちこはすときのやうな騒ぎが始まる。
 余は上甲板うへ昇降口ハツチの扉を、固く閉して終夜しうや殆んど間斷かんだんなき危險きけんと恐怖の壓迫あつはくに備へた。余がかくの如く嚴重げんぢうな用意をしたにも係らず、猶且なほかつ堪へ難い不安を感じたといふことは、やが其夜そのよ如何いかに恐しい出來事できごとがあつたかを證明しようめいしてあまりがある。
 恐怖を感じ不安に襲はれた程長いものはない。余はが明けてから、精せいしん過度くわど疲勞ひらうめに、太陽たいやうが地平線から高くあがるまで何事も知らずに熟眠じゆくみんした。やがその朝目醒めたとき、余は妻らと共に前夜の危險きけんと恐怖とを語り合つて、益ゝますます深い疑惑の淵にしづみ行くのであつた。

"From the Tideless Sea"
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   ▲魔力まりよくのある怪物くわいぶつ

 余はこの不思議な出來事できごとを見て、しんから戰慄せんりつを禁ずることができなかつた。何者の所業しわざまたうしたわけか、其時そのときの余に取つては一切夢中むちうであつた。で、あたかも獵犬りやうけんに追はれた兎の如く、下甲板げかんぱん寢室しんしつに逃げ込んでしまつた。
 其夜そのよは殆どマンヂリともしなかつた。翌朝よくてう此事このことを妻に話すと、彼女かれ今更のやうに驚いて、是非ぜひ死んだ野豚が見たいといふ。そこで二人連れ立つて行つて見ると、昨夜ゆふべ死んだまゝになつて居たのが、何者なにものの鋭利なる牙でか、野豚の頭は胴から離れ、其他そのた大小だいせうの傷を無数むすうに負ふて、四脚よつあしで虚空をつかんで居た。
 かく不思議で堪らない。うなると怪異くわいい正體しゃうたい何處どこるかといふことが問題になる。そこで余は船中せんちうくまなく捜索して見たが、遂に何者なんらの怪しむべき者をも見出すことがなかつた。しかしながら頑犬ぐわんけん鐡檻てつをりを破り、獰猛だうまうな野豚をほふ手際てぎはから判斷はんだんすると、怪物くわいぶつ怪物くわいぶつ餘程よほど恐るべきものであるといふことだけは確實たしかになつた。

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   ▲野豚が惨殺された

 寢室しんしつはひつたがよひ怪異くわいゝ出來事できごと熟睡じゆくすゐを妨げたのか、午前二時頃不圖ふと眼を醒すと、何時いつとはなしに意識が明晰はつきりしてて、うしても元の睡眠すゐみんに陥ることができなかつた。そこで竊乎そつとランプをけて寢室しんしつを抜け出した。
 上甲板うへへ出ると靜寂せいじやくなる深夜の空氣くうきが、又してもかすかな怪音くわいおんゆるいでる。余は其音そのおとたより、、、に船首の方へ近寄つた。と思ふと、突如として騒々さうゞゝしい音が起つた。余はランプで四邊あたりを照らした。けれども、もとより何者も見出すことはできなかつた。
 絶海無人ぜつかいむじんほとり、暗夜あんやにけたゝましき怪音くわいおんを聞くといふことに就いては、其處そこに何等かの危險きけんが存在するものと覺悟かくごしなければならない。余は夢破れてふたゝび眠られぬまゝの、いはゞ、、、)一しゆ醉狂すいきよう上甲板うへへ出てたのであるが、不圖ふと昇降口ハツチの扉を開け放しにしておいは事に考へ及ぶと、直ぐに暗中あんちう危險きけんが何事も知らずに熟睡じゆくすゐして居る妻と娘のうへに及びはしないかといふことが心配になつたので、一旦退いて昇降口ハツチの扉を閉ぢ、背水はいすゐぢんを張つた積りで、片手にランプを打振りうちふり片手にをのを提げて空虚な前甲板ぜんかんぱんに行つた。
 余は正直しやうじき白状はくじやうする。此時このときばかりは實際じつさい恐怖の念に打たれざるを得なかつた。
 余は此處ここで凄惨なる光景ありさまに眼をさらした。余の船には巨大な一頭の野豚がのこつて居た。その野豚は前甲板フオクソルの下の豚舎スチイ飼養しやうしてあつた。ところが余がそのこの豚舎スチイに近づいて見ると、豚の奴は堅牢けんらうに造られた豚舎スチイから引きずりいだされ、膨れた腹をうへにして死んで居るではないか。のみならず、豚舎スチイの太い鐡格子てつがうしが、飴細工あめざいくのやうに自由じいうに曲げてある。甲板デツキには鮮血がほとばしつて見るから殘酷むごたらしい。

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