Sigsand Manuscript

ウィリアム・ホープ・ホジスンとその周辺

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一九〇一年の国勢調査の折、ブラックバーンのヘンリー・ストリート十六番の家にいたのは母親リジー・サラ未亡人の他にウィリアム・ホープ、二人の妹、十七歳になった長女マリー・エリザベスと次女マリー・バーサ・アン十五歳であった。バーサの職業欄には電話交換手、そしてホープの項には体育学校代表と記されている。
 船を下りたホープが次に身の置き場に選んだのは、ほとんど自己流とはいえ、すでにかなりの経験を持っていたボディビルディングであった。この時期のボディビルは、現代のそれとは少し趣を異にする。この頃は重量挙げや健康のための鍛錬といった内容も含まれ、特に重量挙げはほとんど大道芸の一演目、エンターテイメントとしてもみられていたようで、ミュージックホールや見世物小屋などで盛んに演じられていた。重量挙げの選手というより力持ちとか鉄人などといった言葉の方がふさわしいくらいであろう。Iron Gameという単語がそれを如実に言い表していよう。かつて、浅黒く筋肉質の体といえば労働者階級のものとされていたのだが、十九世紀後期にはボディビルディングは階級の壁を越えて、イギリス各地にぞくぞくと教室が開かれていた。一九〇一年には一回目の全英コンテストが開かれている。主催は、ミュージックホール出身の体育家、ユージーン・サンドウ、そして審査員の中にはコナン・ドイルの名も見える。現代のウェイトトレーニングの基礎が出来上がったのもこの時期である。
一九〇〇年秋頃、ホジスンはブラックバーンのロイアル・シアターの隣にあるアイントワース・ストリート十三番地のビルの二階に「体育学校(School of Physical Culture)」を開いた。学校の開設に当たっては、叔父から資金援助を受けたようだ。設備はなかなか凝ったもので、千二百平方フィートの敷地に広く快適な教室、更衣室、シャワー室、ロビー、それに換気装置に加え、各部屋の電気照明というように、大都市の同種のものと比べても決して見劣りするものではなかった。この学校の売りは、設備だけではなく、現在ではごくありふれたファイルシステムにあった。どのようなレッスンが必要なのか判断できるように、生徒は入校時に学校認定の医師により、綿密な診断を受けると同時に専属写真家のフランク・バートンの手で写真(アマチュア写真家のホジスン自身でなく、外部の写真師を入れていることに注目されたい)を撮られた。そしてレッスンが進行していく過程で何度もチェックを受けるのである。
 レッスンは午後7時半と8時半の二クラスが開かれ、三ヶ月(十三週)間、週1レッスンで十シリング六ペンス、週二レッスンだと十七シリング六ペンスであった。都市部の商店が半ドンになる、土曜日の午後には十二レッスン当たり八シリング六ペンスで教室が開かれた。
生徒は地元の事務員たちだけでなく、警官を相手にしたクラスもあったし、YMCAに出向いてクラスを開くこともあった。生徒数は開校から十八カ月で、のべ三〇〇から三五〇人に上ったという。
下の写真はブラックバーンの地元紙に掲載された「体育学校」の広告です。

WHH.jpg


この項続く。
kane
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体育学校時代のホジスンの記事は、貴重ですね。ホジスンがボディビルをやっていたということは、有名ですが、あまりその内容は詳しくは知られていないので、これからの記事が楽しみです。

2007.04.27 21:28 URL | shigeyuki #- [ 編集 ]













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2007.07.27 12:41 | 『ホール』全国一覧。

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