Sigsand Manuscript

ウィリアム・ホープ・ホジスンとその周辺

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皆様お久しぶりです、ずいぶん間が空いてしまいましたがホジスン体育学校についての続きです。

 当時ホジスンは二十二歳、身長163cmと決して大柄ではなかったが(恐らく当時の英国人と比べても平均以下だったろう)、後に語ったところでは体重67.6kg、吸気時胸囲108cm、上腕囲38cm、前腕囲32cm、腰囲72cm、右大腿囲57cm,下腿囲37cm、顎囲41cmという体格で、モスコウィッツがいうような国で一二を争うという程ではないにしても、十分にがっちりと鍛え上げられた体をしていた。
ある書簡では次のように語っている。「片手で五十六ポンドのウエイト二つを頭上一杯まで持ち上げられましたし、実際、これにさらにウエイトを上乗せしても大丈夫でした。・・・また、四分の一トンの物を手に何のストラップも巻かずに素手で地面から持ち上げられました。(1906年3月2日コールソン・カーナハン宛書簡)」ホープはボディビルディングのほかにも、水泳やボクシング、柔道、乗馬も達者であったという。
体育学校開設の前後の一九〇〇年の十月二十四日、ホジスンはブラックバーン・テクニカル・スクールにおいてE..S.ベリンガム氏の助手としてさまざまなポーズのモデルをしたりデモンストレーションをしている。ホジスンもベリンガム氏とともに講演を行い、自分の鍛錬法についてスライドショーを行った。同様のデモンストレーションは数回行われ、それなりの好評を得たようだ。体育学校はしばらく経つと生徒不足に悩まされるようになったらしい。前回載せた広告が二年二月、そしてブラックバーンの街の急な坂道を自転車で下ったのが二年八月、フーディニに挑戦したのが同年十月のことである。そしてホジスンが書いたボディビルディングに関する記事は、一年八月から四年六月にかけて都合五編を数える。こうして見ていくと、数々の奇行や記事も学校の宣伝のためであったのではないかと思われてくるが、いかがなものだろうか。当時の住所録によると、体育学校には、少なくとも一九〇三年まではホジスンの名が代表として挙がっているが、〇五年には別の人物、R.ワディントン氏に代わっている。こうして学校は一九一五年くらいまで存続したようである。なぜ、ホジスンは代表から外れたのだろう。学校の経営不振によるものか、それとも創作活動に専念したかったからなのだろうか。少なくともはっきりしているのは、一九〇四年に作家としてデビューしたということである。

kane
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記事や奇行が学校の宣伝目的というのは、違和感なく受け入れられますね。
ホジスンの体育学校が1915年頃まで存続したというのは、一般にはホジスンは学校を閉鎖して作家になったとされているので、新鮮ですね。
売却でもしたのでしょうか?もしそうだとしたら、タイミング的にも、作家になるための当座の生活資金のためと考えるのが無理がないかもしれませんね。
フディーニは、後までブラックバーンに行くたびにホジスン一派に嫌がらせを受けつづけたといいますから、売却したあとも学校とは接点がずっとあったのかもしれません。

2007.06.24 23:24 URL | shigeyuki #- [ 編集 ]













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